澄んだ横須賀の空の下、三浦半島を西日が照らし、
護衛艦「いずも」の甲板に反射するころ、
男は息を切らして病室に駆け込んだ。
「ウギャ!!ウギャー!!!ブッギャーー!!!!!
(ヒックヒック)」
「おいおい、この世が終わってしまうのかい?
そんなに泣くことはないだろう?」
初めて息子を抱いた男は、
まるで何もない空間から、突如我々の宇宙が形成された
~どうやらビックバンというらしい~
ように、あふれ出る感情を抑えきれずにいた。
「全てのものには、始まりがあって終わりがあるわ。
その子の宇宙は、今まさに始まったところね。」
妻が言った。
「ただ、今はおなかがへっているの。本当にそれだけ。」
育児というものは、奥が深いらしい。
男は直感的に理解した。
「パスポート・権利証・印鑑証明書を
ご提示いただきたい。」
男は入国審査官のような不躾な態度で依頼をする。
「ああ、用意してきましたよぉ。」
老婆は男の態度を気に留めることもなく
古びたトートバックにしわだらけの手を入れた。
「これが権利証…。
パスポートはこれね。
…もう一つはなんでしたかねぇ?」
「印鑑証明書!」
老婆の友人という男が、
狭く薄暗い法律事務所には大きすぎる声で
横やりを入れる。
不快な男だ。顧客への接遇にこだわりを持つ男は思った。
「ああ、印鑑証明書ねぇ。
じゃあ、こちらですね。」
「確認させて頂きます。」
男は集中力を高め、書類を手に取った…。
「いいか、敵は司法書士を騙しに来ると思えよ!」
男が初めて勤めた事務所~そして唯一勤めた事務所~の
所長は、まるで甲子園を目指す強豪校の監督のように
時折熱っぽく指導をしてくれた。
「敵って…。何と戦ってるんですか?」
若く思慮深くなかったころの男には、
滑稽に映ったかつての所長の姿も
ようやく理解できるようになったのだ。
かつての所長を思い出しながら、
銀座の雑居ビルにひっそりとたたずむ
弁護士事務所の一室で、男は偽造かもしれない
パスポートを開いた。
手触りは…問題ない。スベスベだ。
顔写真…今面前にいる人物か…。うぅむ。
ん?これは…
「おばあさん、最近海外はどこに行きましたか?」
「私は海外旅行に行ったことがなくてねぇ。」
「では、これはなんでしょうか?」
男は査証(VISAS)のページを目いっぱい開き
老婆に提示する。
そこには、フィリピン共和国のスタンプが押されている。
・・・・・・・・。
「あ、えぇと、ちょっとわからないねぇ。」
「ご自身がどこに行ったか、解らないんですか?
これは3年前の事ですよね?
3年前のご記憶がないとおっしゃるんですか?」
まるで1998年の横浜ベイスターズのマシンガン打線のように、
男は老婆に容赦なく連打を浴びせる。
(波留、石井琢朗、鈴木尚典、ローズ、駒田、進藤、佐伯、谷繁)
「それに、この権利証ですが、あなたがこの土地を
取得したのは、いつ・誰からですか?」
「それは昭和61年の夏に、父から相続しましたねぇ。」
「そう、昭和61年ですね。では、
この権利証の質感はなんでしょう?
約30年も経過している紙が、私の事務所で使っている
A4のコピー用紙~アスクルで注文している~よりも
白く、新しいなんてことがあるんでしょうか?」
・・・・・・・・。
そんなやり取りが面前で交わされているというのに、
同席の弁護士は何も言わずに
こちらを見ている。まるで狸の置物だ。
まるで言葉を発してはいけない場所
図書館や、コンサートホールのように
あるいは別れ際の恋人のような
きまづい沈黙が流れる。
「先生よぉ、」
沈黙を破ったのは、あの男だった。
つづく
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